クィア・アート

概要

出典:wikiart
Two Figures
Francis Bacon
Date: 1953

「クィア」という言葉はもともと「変わった」「風変わりな」を意味し、英語圏では長く侮蔑語として使われてきましたが、1990年代以降、セクシュアル・マイノリティの包括的な自称として再定義されました。この時代のクィア・アートが際立っているのは、同性愛やトランスジェンダーという問題を「個人的な告白」としてではなく、社会制度と暴力の問題として可視化した点です。

クィアなテーマ自体は以前から存在していました。フランシス・ベーコンは1950年代からねじれ合う男性の身体を生々しく描き、デヴィッド・ホックニーは同性愛が犯罪だった時代のイギリスで、ゲイの親密さをキャンバスに堂々と描きました。しかし1980年代以降、クィア・アートは個人的表現を超えた政治的運動として加速します。

出典:Christie's
David Hockney (b. 1937), California, 1965

最大の契機は、1980年代から90年代初頭にかけて深刻化したAIDS危機です。多くのゲイ男性やアーティストが次々と亡くなる一方、保守的な政治とメディアはAIDSを「自己責任」として偏見と差別を強めていきました。クィア・アーティストたちはこの状況に対し、沈黙を強いられた死者の存在を可視化し、自分たちの身体と関係性のリアルを残すことを、アートの中心課題に据えたのです。

フェリックス・ゴンザレス=トレス

出典:MoMA
Felix Gonzalez-Torres
"Untitled" (USA Today)
1990

出典:National Portrait Gallery
Hide/Seek: "Untitled(Portrait of Ross in L.A.)" by Felix Gonzalez-Torres - National Portrait Gallery

フェリックス・ゴンザレス=トレスは、コンセプチュアル・アートとポスト・ミニマリズムの系譜に位置しながら、オープンリー・ゲイとしてAIDS危機の時代を生き、恋人ロスの死を作品に刻み込んだアーティストです。
代表作《Untitled (Portrait of Ross in L.A.)》では、亡くなった恋人の体重分のキャンディが床に積まれています。観客は自由に持ち帰ることができ、減った分は補充され続ける。この変化し続けるプロセスそのものが、「病で痩せていく身体」と「それでも続く愛と記憶」を静かに語る、生きた彫刻になっています。
時間と変化を作品に組み込むこの発想は、ロバート・スミッソンが自然環境の変容を《スパイラル・ジェッティ》に取り込んだ姿勢と共鳴します。ただし彼が扱うのは自然ではなく、人間の行為・喪失・記憶という内面のプロセスです。

出典:wikipedia
『スパイラル・ジェティ』(Spiral Jetty)
ロバート・スミッソン

デイヴィッド・ヴォイナロウィッチ

出典:The David Wojnarowicz Foundation
Silence = Death

ヴォイナロウィッチが自らの唇を縫い合わせたイメージは、1980年代半ばから政治家や社会がAIDSの惨状を黙殺してきたことへの、身体を張った抗議です。

出典:wikipedia
Wojnarowicz film Theatrical release poster (2020)

ロバート・メイプルソープ

写真家ロバート・メイプルソープは1970〜80年代を通じて、ゲイ・サブカルチャーやSMイメージ、男性ヌード、花などを、極めてクラシカルで精緻に撮影しました。彼の写真は「わいせつか、芸術か」をめぐる激しい論争を引き起こし、アメリカの保守政治とアートの自由、公共助成を巡る文化戦争の象徴のひとつになりました。

出典:MoMA
Robert Mapplethorpe
Untitled from the Ken Moody Portfolio
1985

出典:TATE
Artwork Caption
Orchid
1988, Robert Mapplethorpe

出典:MoMA
Robert Mapplethorpe
Untitled from America
1988

キャサリン・オピー

キャサリン・オピーは、1990年代からレズビアン・コミュニティやレザーカルチャー、クィアな家族の姿を大判写真に収めてきた写真家です。代表作《Self-Portrait/Cutting》では、自身の背中に家と白い柵の絵をナイフで刻み、その傷跡をポートレートとして提示しました。クィアの身体に文字どおり刻み込むことで、異性愛的な「正常さ」の暴力性を告発しています。

出典:Guggenheim Foundation
Catherine Opie
Self-Portrait/Cutting

出典:MoMA
Catherine Opie
Dyke
1993

出典:MoMA
Catherine Opie
Being and Having
1991

ロティミ・ファニ=カヨーデ

ロティミ・ファニ=カヨーデは、ナイジェリアのヨルバ族の名門に生まれ、内戦を逃れてイギリスに移住した写真家です。黒人男性のヌードを中心に据え、ヨルバの儀式的なシンボルとホモエロティックなイメージを融合させました。「セクシュアリティにおいて、地理的・文化的な移住において、三重のアウトサイダーだ」と語った彼は、人種・セクシュアリティ・ディアスポラが交差する場所から、黒人のクィアな身体を美学的に提示したアーティストです。

出典:Guggenheim Foundation
Rotimi Fani-Kayode
Half Opened Eyes Twins

出典:Guggenheim Foundation
Rotimi Fani-Kayode
Adebiyi

出典:The Polygon
Rotimi Fani-Kayode, Untitled

ミカリーン・トーマス

ミカリーン・トーマスは、クィアなアイデンティティを持つアフリカ系アメリカ人の作家です。マネの《オランピア》やアングルの《グランド・オダリスク》といった西洋美術史の名作を参照しながら、その中心に黒人女性を据えた大型の絵画やコラージュを制作しています。サイケデリックな色彩を用いた画面は、黒人女性の美しさと欲望を当事者のまなざしから表現しました。また、白人男性中心の視線で女性の身体を描いてきた美術史を、クィアかつブラック・フェミニストの立場から書き換える試みです。

出典:Télérama
A Little Taste Outside of Love
la femme noire en majesté
Peinture Mickalene Thomas

出典:wikioo
Portrait of Mnonja – (Mickalene Thomas)

出典:wikipedia
An example of the 1986 Silence=Death poster from the AIDS crisis (designed by the Silence=Death Project, formed in 1985) illustrating the use of an inverted version of the pink triangle from the Holocaust

クィア・アートは、美術館やギャラリーの中だけにとどまりませんでした。ACT UPのようなアクティビスト集団が制作したポスターやバナー、《SILENCE=DEATH》に象徴されるグラフィックも、命と権利を守るための視覚文化として、クィア・アートの重要な一部です。1990年代のクィア・アートは、AIDS危機のただ中で、喪失と愛を記録し、沈黙と差別への怒りを可視化し、クィアな身体と欲望を美学的に提示することで、アートの領域そのものを押し広げました。