1917 年、ニューヨーク独立美術家協会展。
会場に届いた一つの陶器。
男性用便器を 90 度回転させ、「R. Mutt 1917」と署名しただけのもの。
タイトル「泉(Fountain)」。
美術史は、この一個の便器で変わりました。
目次
デュシャンとは
- マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887〜1968)
- フランス・ノルマンディーの旧家、4 兄弟そろって美術家
- 初期はキュビスム・フォーヴィスム的絵画
- 1912「階段を降りる裸体 No.2」でアーモリー・ショー(1913, NY)の話題作
- 1915 年ニューヨーク移住
- 晩年はチェスに没頭、しかし秘密裏に最晩年の大作を制作
- 1968 年没
レディメイドとは
- 「Ready-made(既製品)」
- 市販の工業製品をそのまま、あるいは少し手を加えて「芸術作品」と宣言する
- 「作る」ではなく「選ぶ」「指名する」が芸術の核心になる
- 美術史 2500 年の前提(手仕事・技巧・固有性)を根底から覆す
主要なレディメイド
| 作品 | 年 | 内容 |
|---|---|---|
| 「自転車の車輪」 | 1913 | 木製スツールに自転車の前輪を逆さに固定(最初のレディメイド) |
| 「瓶乾燥機」 | 1914 | パリの市場で買った金属製の瓶乾燥架 |
| 「折れた腕の前に」 | 1915 | 市販の雪かきシャベル |
| 「泉」 | 1917 | 男性用便器 |
| 「L.H.O.O.Q.」 | 1919 | モナ・リザの複製にひげを描き加える |
| 「秘密の音」 | 1916 | 麻ひもの玉、中身は不明(音だけ聞こえる) |
「泉」の事件
- 1917 年、独立美術家協会(NY)が「会費 6 ドルでどんな作品も展示」を謳う
- デュシャンは協会理事の一人
- 偽名「R. Mutt」で便器を送り、展示拒否されるかをテスト
- 協会は議論の末「これは芸術ではない」と展示拒否
- デュシャンは抗議して理事を辞任
- 雑誌『ザ・ブラインドマン』(1917)に匿名社説でその意義を説く
- 「Mutt 氏が 選んだこと、それが芸術行為だ」
オリジナルは展示後に紛失(捨てられたとされる)。
現存するのは 1950-60 年代に作家自身が公認した複製品(17 体)。
ロンドンのテート、パリのポンピドゥー、ニューヨーク MoMA、ヴェネチアのペギー・グッゲンハイム所蔵。
背景にあった思想
- ダダ:第一次大戦への反逆、価値の総否定
- 網膜的(リティナル)絵画への嫌悪:「眼の絵画ではなく頭の芸術」
- ベルクソン・パタフィジック(アルフレッド・ジャリ)の影響
- 署名・複製・原作の概念の根本的問い直し
「大ガラス」と「遺作」
「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)」(1915-23、フィラデルフィア美術館)
- 2 枚の透明ガラスに鉛線・ニス・粉塵で描く未完作
- 9 年にわたる制作、輸送中に偶発的にひびが入る → デュシャン「ひびこそ完成」
- 機械的エロティシズムの図像
- ノートと組み合わせて読む「論理的絵画」
「Étant donnés(与えられたとせよ)」(1946-66、フィラデルフィア美術館)
- 20 年間秘密裏に制作した最晩年の大作
- 古い木製ドアの覗き穴から見るインスタレーション
- 横たわる裸体、滝、ガス灯
- 「絵画から私は引退した」と公言した時期に並行制作
- 没後公開で大センセーション
後世への波紋
1950-60 年代の再発見
- 1950 年代パリ・ダダ世代の再評価
- 1958 年、デュシャンがアメリカでも「美術界の最重要人物」に
- 1963 年パサデナ美術館で初の大回顧展
影響を受けた運動
- ネオ・ダダ:ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ
- ポップ・アート:アンディ・ウォーホル のキャンベル缶も「日常品の指名」
- コンセプチュアル・アート(ジョセフ・コスース、ローレンス・ウェイナー)
- フルクサス(ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク)
- ジェフ・クーンズ、村上隆ら現代の「商業性とアート」
- 2004 年、英国アート界投票で「20 世紀最重要美術作品」に「泉」が選出(ピカソ・ゲルニカを上回る)
論争点
「泉」を本当にデュシャンが作ったのか
- 近年の研究:友人の女性詩人エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェンが送り主だった可能性
- 当時のデュシャンの手紙にも「Mutt 嬢」という記述あり
- ただしデュシャン自身が後年「私が選んだ」と公言、複製を承認
- 「指名(コンセプト)」が作者性であるなら、誰が物理的に送ったかは別問題ともいえる
レディメイドはまだ「ある」のか
- 21 世紀、すべての作品が「レディメイドの後」を生きる
- 原物が捨てられた便器の代わりに、複製が「芸術作品」として流通する皮肉
- 「アートとは何か」を問い続けるフォーマットそのもの
主な所蔵先
- フィラデルフィア美術館:「大ガラス」「Étant donnés」(世界最大のデュシャン・コレクション)
- MoMA:「自転車の車輪」「泉」の複製
- ポンピドゥー・センター(パリ):「泉」の複製・「秘密の音」
- テート・モダン(ロンドン):「泉」の複製
- 横浜美術館:「自転車の車輪」「泉」「箱の中の箱」(日本最大級コレクション)
まとめ|デュシャンを読む視点
- 「作る」ではなく「選ぶ」を芸術行為に変えた最初の作家
- 「泉」(1917)以降、現代美術はその影響圏にある
- 網膜的絵画 → 概念的芸術への決定的なシフト

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