「日本画」とは:明治期に発明された近代ジャンル
「日本画(にほんが)」というジャンル名は、江戸時代以前には存在せず、明治期に「西洋画(油彩・水彩)」の対立概念として発明された。1880 年代、東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立準備期に、米国人哲学者アーネスト・フェノロサと岡倉天心が、日本伝統絵画を西洋画から区別するためのカテゴリーとして「日本画」を提唱した。これが、伝統的な絹本・紙本に膠(にかわ)と岩絵具で描く絵画形式を、近代国家のアイデンティティと結びついた一つのジャンルとして再編する出発点となった。
日本画は明治・大正・昭和を通じて、(1)狩野派・土佐派・大和絵・南画・浮世絵などの伝統流派の統合、(2)西洋画法の選択的導入(陰影・遠近法・空気感)、(3)展覧会と国家意識との結びつき、を経て独自のモダニズムを形成した。横山大観・菱田春草・上村松園・東山魁夷・平山郁夫らが代表作家として名前を残し、戦後に至るまで日本のアカデミック絵画の中心的位置を保ち続けてきた。
主要トピック:4 期の展開
第 1 期:明治の創成(1880-1900)
1887 年、東京美術学校設立、岡倉天心が初代校長に就任(フェノロサが顧問)。狩野派最後の世代である狩野芳崖・橋本雅邦が日本画教官として教鞭を執り、第 1 期生として横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山らが学ぶ。狩野派の粉本主義を踏まえつつ、西洋画の陰影・遠近法を選択的に組み込む試行が始まる。
第 2 期:朦朧体と日本美術院(1898-1920)
1898 年、岡倉天心が東京美術学校長を辞任し、日本美術院を創立。大観・春草・観山が中心となり、輪郭線を抑えて空気感を表現する「朦朧体(もうろうたい)」を試行した。当初は批評家から酷評されたが、海外(インド・米国)での評価を経て、大正期以降に近代日本画の正統となる(大観 hub 参照)。1907 年から始まる文部省美術展覧会(文展)は、日本画と西洋画を並列展示する国家公募展となり、日本画の社会的地位を確立した。
第 3 期:戦前の多様化(1920-1945)
大正・昭和初期、日本画は東京と京都で異なる展開を見せた。東京は院展(日本美術院展)を中心に大観の系譜(小林古径・前田青邨・安田靫彦)、京都は帝展・京都画壇の伝統で上村松園(美人画)・竹内栖鳳・川合玉堂(風景)・橋本関雪が活躍した。戦時期には軍部の宣伝戦画も多数描かれ、戦後の批判対象ともなった。
第 4 期:戦後・現代(1945-)
戦後、東山魁夷(1908-1999、風景画)・平山郁夫(1930-2009、シルクロード)・加山又造(1927-2004、装飾画)・松尾敏男・千住博らが、戦前の日本画を引き継ぎつつ国際化への道を模索した。1980 年代以降、村上隆・奈良美智ら現代美術側からの「日本画的なるもの」への問い直しが起こり、日本画ジャンルの境界が動的に再編成され続けている。
代表作家と代表作
| 作家 | 生没 | 代表作 | 所属系統 |
|---|---|---|---|
| 狩野芳崖 | 1828-1888 | 悲母観音 | 狩野派最終世代・東京美術学校 |
| 横山大観 | 1868-1958 | 無我・生々流転 | 日本美術院・東京 |
| 菱田春草 | 1874-1911 | 黒き猫・落葉 | 日本美術院・東京 |
| 上村松園 | 1875-1949 | 序の舞・花がたみ | 京都画壇・美人画 |
| 竹内栖鳳 | 1864-1942 | 班猫 | 京都画壇・四条派 |
| 速水御舟 | 1894-1935 | 炎舞 | 日本美術院 |
| 東山魁夷 | 1908-1999 | 道・緑響く | 戦後日展・院展 |
| 平山郁夫 | 1930-2009 | 仏教伝来・シルクロード連作 | 院展・東京藝大 |
| 加山又造 | 1927-2004 | 千住・春秋波濤 | 院展・新制作 |
| 千住博 | 1958- | 滝 | 現代日本画 |
技法・特徴
- 支持体:絹(絹本)、和紙(麻紙、雲肌麻紙、雁皮紙など)。和紙には膠で礬水(どうさ、明礬と膠の溶液)を引いて滲み止めを施す。
- 絵具:岩絵具(鉱物粉末)、水干(すいひ、土性顔料)、墨。膠(にかわ)と水で溶いて使う。岩絵具は粒子の粗さで色味と質感が変わり、これが日本画特有の絵肌を生む。
- 金銀:金箔・銀箔・砂子(すなご、金銀を細かくした粉)。装飾と空間表現を兼ねる。
- 骨描き(こっせき)と片ぼかし:墨で輪郭線を描き、その内側を彩色するのが伝統的描法。朦朧体以降は骨描きを抑え、絵具のグラデーション(片ぼかし)で形態を立ち上げる手法も併用される。
- 大画面と展覧会:日本画は明治以降、展覧会出品を前提に大画面化した。これは江戸期の屏風絵・障壁画の伝統を、近代の公募展制度に再接続する流れでもあった。
歴史的文脈:「日本画」とナショナル・アイデンティティ
「日本画」概念の発明は、明治期の近代国民国家形成と直接関係する。フェノロサ・天心が「日本画」を提唱した背景には、欧化政策が進む明治社会で、日本独自の美術伝統を「失われゆくもの」として保護する切実な危機感があった。同時に、欧米列強と対等に立つ近代日本のアイデンティティを、絵画という象徴領域で確立する政治的意図もあった。日本画は当初から「日本のナショナル・アート」という二重性(伝統保護と近代化)を抱えており、これが戦時期の戦争画・戦後の戦争協力批判・21 世紀の現代美術からの問い直しまで、日本画ジャンルが常に自己批判を組み込み続ける構造を生んだ。岡倉天心『東洋の理想』(1903)・『日本の覚醒』(1904)はその思想的支柱となった。
京都画壇と東京画壇:地域別の二極構造
近代日本画は、東京と京都という地域別の二極構造で発展した。東京画壇は東京美術学校(現・東京藝術大学)を中心とし、岡倉天心・横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山ら五浦時代の集団に始まり、戦後は院展(日本美術院展)として継承された。一方、京都画壇は京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)を中心とし、竹内栖鳳・上村松園・橋本関雪・福田平八郎らが活躍した。京都画壇は江戸期の四条派・円山派の伝統を直接継承し、東京画壇が「日本画=ナショナル・アートとしての革新」を推進したのに対して、京都画壇は「京都の伝統工芸との連携」「写生重視」「装飾性」を独自の特徴とした。両画壇はそれぞれ独自の文展(後の帝展・日展)出品を続け、20 世紀を通じて緩やかなライバル関係にあった。今日まで、東京藝大と京都市立芸大の日本画科は、それぞれの教育系統を保ち続け、現代日本画の二大育成拠点となっている。
展覧会システム
- 院展(日本美術院展):1898 年創立の日本美術院が主催、戦前は「再興院展」と称され戦後再開。大観の系譜を継ぐ団体として、現代まで日本画展覧会の一極を占める。
- 日展(旧文展・帝展):1907 年文部省美術展覧会としてスタート、1937 年新文展、戦後 1958 年「社団法人日展」、現「公益社団法人日展」。日本画・洋画・彫刻・工芸・書の 5 部門公募展。
- 創画会・新制作協会・春陽会・国画会:戦前から戦後にかけて生まれた在野団体。それぞれ独自の方向性で日本画の革新を試みた。
- 東京藝術大学美術学部日本画科:日本画教育のフラッグシップ機関で、ほぼすべての主要日本画家を輩出してきた。京都市立芸術大学・愛知県立芸術大学・武蔵野美術大学・多摩美術大学にも日本画科があり、地域別の教育系統を形成する。
影響・後世
- 戦後デザイン・グラフィック:日本画の装飾性は、田中一光・横尾忠則・原研哉らグラフィックデザイナーに継承され、戦後日本のデザイン的アイデンティティの基盤となった。
- 現代美術からの批判的継承:村上隆「スーパーフラット宣言」(2000)は、日本画の「平面性・装飾性」を現代美術として再起動する試みだった(スーパーフラット)。
- 藤田嗣治と乳白色の肌:戦前パリで活動した藤田は、絵具・支持体・技法すべてで日本画と西洋画の融合を試みた特異な存在。
- 国際展覧会:2014 年「ZIPANGU 蜘蛛の糸」展(パリ)、2017 年「日本画 1945-1965」展(パリ・東京)など、日本画は国際展覧会で再評価が継続している。
関連記事
続けて横山大観を読むと、日本画近代の正統がどのように制度・実作・思想の三層で構築されたかが、一人の作家を通じて立体的に見える。
