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岡本太郎とは:パリで前衛美術を学び、戦後日本のアヴァンギャルドを開いた画家

岡本太郎(おかもと たろう、1911〜1996)は、戦後日本を代表する芸術家・思想家である。父は漫画家・岡本一平、母は小説家・岡本かの子という文人家庭に生まれ、慶應幼稚舎から東京美術学校に学んだのち、1929 年に両親とともに渡欧し、パリで約 10 年間を過ごした。

パリ滞在中、太郎はアブストラクション=クレアシオンの抽象運動に参加し、ジョルジュ・バタイユの「コントル=アタック」「アセファル」に加わって哲学・人類学的思考を深めた。1940 年に帰国し、1942 年に応召して中国戦線に従軍。戦後 1946 年にアトリエを開き、「対極主義」を提唱して戦後日本美術を牽引した。代表作「太陽の塔」(1970 年大阪万博)は、戦後日本のもっとも有名な公共彫刻として、今も大阪・万博記念公園に立ち続けている。

主要トピック:パリ・対極主義・縄文の発見・太陽の塔

パリの 10 年(1929〜1940)

パリ大学で哲学・人類学を学び、マルセル・モースの講義を聴講した。バタイユとの交友はサルトル以前の「裏のフランス思想」とでも呼ぶべき、聖と侵犯・蕩尽・供犠をめぐる批評的視座を太郎に植え付けた。同時期にアブストラクション=クレアシオン展に作品を出品し、抽象絵画の前衛として活動した。1940 年、ナチス侵攻によりパリを離れて帰国。

「対極主義」(1947 提唱)

太郎の代表的理論。対立する二つの極(合理/不条理、有機/幾何、聖/俗、暗/明)を、調和させずに激突させたまま画面に共存させる姿勢を指す。これは戦後日本の「無難な美術」「審美的調和」への徹底的批判であり、絵画の中に矛盾と緊張を組み込むマニフェストだった。

縄文土器の発見(1951)

1951 年、太郎が東京国立博物館で縄文土器(火焔型土器)を見て衝撃を受けたエピソードは、戦後日本美術史の転換点として知られる。太郎は雑誌『みづゑ』に「縄文土器論」を発表し、「縄文の根源的・呪術的造形こそが、稲作以後の弥生・古墳・仏教伝来で抑圧された日本美術の本質である」と論じた。これは『日本美術史』を書き換えると同時に、戦後日本のアイデンティティ問題を造形論として提示する重大な発言となった。

「太陽の塔」(1970)

1970 年大阪万博のテーマ館(地下「過去」、地上「現在」、屋根「未来」)の頂点として制作された高さ 70 m の彫刻。万博閉幕後も解体されず保存され、2018 年に内部公開(修復後)が始まった。万博のテーマ「人類の進歩と調和」を逆手に取り、「進歩でも調和でもない、根源的なエネルギー」を体現する異形の作品で、戦後日本美術のパブリック・アートの代表作となった。

代表作・代表事例

作品名制作年形式所蔵
痛ましき腕1936/1949再制作油彩川崎市岡本太郎美術館
森の掟1950油彩川崎市岡本太郎美術館
太陽の塔1970FRP・鉄筋コンクリート 高さ70m大阪・万博記念公園
明日の神話1968-1969壁画 14mJR渋谷駅マークシティ連絡通路
こどもの樹1985彫刻 9mこどもの城前(東京・青山)
母の塔1971彫刻 30m川崎市岡本太郎美術館
坐ることを拒否する椅子1963〜陶器 連作各所
自画像「重工業」1949油彩東京国立近代美術館

技法・特徴

  • 強い原色と黒の輪郭線:赤・黄・青の強い原色を、太い黒の輪郭で囲む様式。戦後日本のグラフィックデザインに直接的影響を与え、ピクトグラム・ポスター・絵本の語彙となった。
  • 顔・目・触手のモチーフ:太郎作品には、巨大な目玉・触手・顔の連続が頻出する。これは縄文土器・南太平洋・アフリカ呪術芸術の語彙と、シュルレアリスム・バタイユ思想の融合から生まれた。
  • パブリック・アートとしての彫刻:「太陽の塔」「明日の神話」「母の塔」「こどもの樹」など、太郎の彫刻は美術館の中ではなく公共空間に置かれ、市民の日常生活の中で出会う「環境彫刻」として機能した。
  • 陶器・写真・著作・テレビ出演:絵画・彫刻に加えて、陶器(坐ることを拒否する椅子)、写真(沖縄・東北の取材)、テレビ番組(「マクセル」CM の「芸術は爆発だ」発言)、著作(『今日の芸術』ほか)を横断する総合的活動を行った。
  • 「芸術は爆発だ」:1981 年の CM での発言で、80 年代の日本社会を象徴するキャッチフレーズとなった。岡本本人はこれを「内部のエネルギーが日々全方位に爆発することが芸術である」と説明した。

歴史的文脈:戦後日本のアヴァンギャルドと万博

戦後日本のアヴァンギャルドは、1950 年代の具体美術協会(吉原治良、白髪一雄ら、関西)、1960 年代のもの派(李禹煥、関根伸夫ら、東京)、ハイレッド・センター(赤瀬川原平ら)、ネオ・ダダ・オルガナイザーズと多層的に展開したが、岡本太郎はこれらいずれの運動にも属さない、独立の前衛思想家・実作者として活動した。1970 年大阪万博は、戦後日本の高度経済成長の頂点を象徴する国家イベントだったが、太郎はその「人類の進歩と調和」というテーマを「太陽の塔」で異化し、進歩主義への批判を作品の中核に据えた。これは戦後日本美術の制度・国家・市民社会の関係を問う重要な事例である。

影響・後世

  • 戦後デザイン:太郎の図像言語(強い原色、太い輪郭、目玉モチーフ)は、戦後日本のグラフィックデザインに直接受け継がれ、田中一光・横尾忠則ら次世代デザイナーに影響を与えた。
  • 「縄文ブーム」:太郎の縄文論は、考古学・人類学・現代美術を横断する「縄文ブーム」を継続的に生み続けてきた。2018 年東京国立博物館「縄文ー1万年の美の鼓動」展は、太郎の縄文論を出発点とする戦後縄文論の到達点として企画された。
  • 「明日の神話」の再発見:1968-1969 年にメキシコで制作された巨大壁画「明日の神話」は、メキシコの政情変化で行方不明になっていたが、2003 年に発見され、2008 年に渋谷駅構内に常設設置された。これは原爆をモチーフとする戦後日本最大の壁画で、太郎の戦争批判の総括ともされる。
  • 2011 年生誕 100 年記念展:東京国立近代美術館「岡本太郎展」は、戦後日本のアヴァンギャルド再評価の重要な節目となった。
  • 現代アートへの継承:村上隆・草間彌生・奈良美智・蜷川実花ら、ポップで強い色彩を用いる現代日本のアーティストは、岡本太郎の戦後の「視覚言語の解放」を遠い前提として活動している。

「太陽の塔」内部の生命の樹

2018 年に内部公開が始まった「太陽の塔」内部には、高さ約 41 m の「生命の樹」が立ち上がっている。アメーバから恐竜・哺乳類・人類までの生命進化を、樹の幹に約 180 体の生物模型として配置した立体構造で、戦後日本パブリック・アートの隠れた最高傑作とされる。万博当時、入場者は塔内をエスカレーターで上昇しながら生命進化を体験する設計だった。閉幕後は内部が荒廃したが、2018 年大規模修復を経て公開が再開された。事前予約制で、来館者は今も限定されている。岡本太郎の総合芸術観を体験するには必須の場所となっている。

岡本かの子・岡本敏子と太郎の家族史

岡本太郎の創作活動を背景から支えたのは、母・岡本かの子と養女・秘書の岡本敏子という二人の女性の存在である。母・かの子(1889-1939)は明治・大正の女流小説家で、与謝野晶子と並ぶ才能と評された人物。太郎が 10 代で渡欧する際にも一家で同行し、パリで自身は仏教研究と小説執筆を続けた。太郎の精神的根幹である「対極主義」の発想には、かの子の仏教的な「両極の調和を拒否し激突として共存させる」思想の影響が指摘されている。一方、岡本敏子(1926-2005)は 1948 年から太郎のアシスタントとして仕事を共にし、後に養女となり、太郎没後の遺産管理・著作管理・展覧会企画を一手に担って戦後の太郎再評価を主導した人物。敏子が編集した『自分の中に毒を持て』『今日の芸術』再刊は、平成期に太郎ブームを再燃させた直接の起点である。岡本太郎記念館(東京・南青山)と川崎市岡本太郎美術館(多摩区生田緑地)はいずれも敏子の働きかけで実現した。

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続けて村上隆とスーパーフラットを読むと、岡本太郎が開いた戦後アヴァンギャルドの「強い色彩・日本のアイデンティティ」というテーマが、平成以降の現代美術にどう継承されたかが分かる。

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