藤田嗣治とパリのエコール・ド・パリ|乳白色の裸婦と猫で世界を制した日本人画家
藤田嗣治(ふじた つぐはる、1886–1968)は、20 世紀前半に パリ で国際的成功を収めた日本人画家で、洋画家 として最も世界的な名声を得た人物です。
1913 年に渡仏し、モンパルナスのアトリエ街で エコール・ド・パリの中核として活躍。日本画の 墨線と 平塗りを油彩に応用した独自の 「乳白色の肌」で、1920 年代パリの裸婦表現を一新しました。
第二次世界大戦中は日本に帰国して戦争記録画を多数制作。戦後は戦争責任を問われ、1949 年再渡仏してフランスに帰化。1959 年カトリックに改宗し レオナール・フジタと改名、ランス郊外に「平和の聖母礼拝堂」を建てて生涯を閉じました。
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藤田嗣治の生涯
| 年 |
事項 |
| 1886 |
東京・牛込に陸軍軍医(後に軍医総監)藤田嗣章の次男として生まれる |
| 1905 |
東京美術学校西洋画科入学(黒田清輝に学ぶ) |
| 1910 |
同校卒業 |
| 1913 |
パリへ渡る。モンパルナスのシテ・ファルギエールに住む |
| 1917 |
シェロン画廊で初個展、好評を得る |
| 1919 |
サロン・ドートンヌ会員に推挙 |
| 1921 |
「自画像」発表、独自の様式を確立 |
| 1925 |
フランスのレジオン・ドヌール勲章受章 |
| 1929 |
16 年ぶりに帰国、各地で展覧会 |
| 1933 |
パリから本格帰国 |
| 1938 |
陸軍嘱託として中国戦線へ |
| 1941–1945 |
「アッツ島玉砕」など戦争記録画を制作 |
| 1949 |
戦争責任を問われ再渡仏 |
| 1955 |
フランス国籍取得 |
| 1959 |
ランスでカトリック受洗、「レオナール・フジタ」と改名 |
| 1968 |
スイス・チューリッヒで没。享年 81 |
東京美術学校とパリ渡航
- 父・嗣章は陸軍軍医総監、エリート軍人家系
- 東京美術学校で黒田清輝の外光派を学ぶが、画風には反発
- 1913 年、27 歳でパリへ。当時は日本人画家の渡仏ブーム
- モンパルナスのアトリエ「ラ・リューシュ」「シテ・ファルギエール」周辺に住む
- 第一次世界大戦中はロンドン・南仏に避難
- 戦後パリで頭角を現す
エコール・ド・パリとは
- 「パリ派」の意。1920 年代パリで活躍した外国人芸術家群
- 運動・流派ではなく、国際芸術都市パリに集まった個人の総称
- モンパルナス地区を中心に、貧困と自由のなかで創作
- 主要メンバー:
- ・モディリアーニ(イタリア、1884–1920):細長い肖像画
- ・スーティン(リトアニア、1893–1943):表現主義的油彩
- ・シャガール(ロシア、1887–1985):幻想的色彩
- ・キスリング(ポーランド、1891–1953):写実的肖像
- ・ザッキン、リプシッツ(彫刻家)
- ・藤田嗣治(日本):唯一の東洋人として国際的成功
「乳白色の肌」の革新
- 白絵具に滑石粉(タルク)を混ぜた独自の地塗り
- 絹のような滑らかな表面、真珠のような光沢
- その上に 細い墨線で輪郭を描く
- 陰影は最小限、輪郭線と平塗りで形を構築
- 日本画の墨線・平塗り・装飾性を油彩で再現
- パリ画壇に衝撃、裸婦表現の新基準
- 1920 年代後半までに 「フジタ式」として完成
代表作と主題
| 作品 |
制作年 |
主題 |
| 自画像(猫を抱く) |
1921 |
細い墨線と乳白色の自己肖像 |
| 横たわる裸婦キキ |
1922 |
モンパルナスのモデル・キキを描く |
| 裸婦と犬 |
1923 |
白い肌+動物の構成 |
| カフェ |
1949 |
パリの日常風景 |
| 群像(争闘) |
1928 |
多人物の構成 |
| アッツ島玉砕 |
1943 |
戦争記録画の代表 |
| サイパン島同胞臣節を全うす |
1945 |
戦争記録画 |
| 聖母子像(平和の聖母礼拝堂) |
1966 |
晩年カトリック信仰 |
モデル・キキとモンパルナスのミューズ
- キキ(アリス・プラン、1901–1953):モンパルナスのモデル・歌手
- 藤田、マン・レイ、キスリングらが繰り返し描いた
- キキの裸婦像で藤田は 1922 年サロン・ドートンヌで大成功
- 2 万フランの最高値で売れ、一躍スターに
- パリの社交界(ジャン・コクトー、ピカソ、ヘミングウェイ)と交流
- 「世界一お洒落な日本人」として知られる
藤田の容貌と自己演出
- おかっぱ頭、丸眼鏡、口髭の独特な風貌
- 耳に金のピアス、左頬には十字の刺繍
- 派手な服装でパリの夜会に出没
- 「日本人らしさ」を演出しつつ、パリの国際派として自己表現
- マン・レイの写真ポートレートで世界に知られる
- 5 回の結婚と離婚、波瀾の私生活
戦時下の帰国と戦争記録画
- 1933 年本格帰国、戦時下の日本で活動
- 1938 年陸軍嘱託画家として中国戦線へ
- 「猛吼」(1942)、「アッツ島玉砕」(1943)など多数
- 「アッツ島玉砕」は北方戦線の悲劇を描いた大作
- 戦争記録画展で巡回展示、国民を鼓舞
- 戦時下、藤田は 「画家の出兵」を体現した存在
戦争責任問題と渡仏
- 1945 年敗戦後、藤田は戦争責任の象徴的存在として批判
- 美術界の戦争協力責任を一身に問われる
- 1947 年、戦争画は GHQ により接収(後に米国経由で日本に返還)
- 1949 年、藤田は再渡仏。「私は二度と日本に帰らない」と宣言
- 1955 年フランス国籍取得、日本国籍離脱
- 戦後の藤田は 戦争責任論の象徴として複雑な評価
カトリック受洗と「レオナール・フジタ」
- 1959 年、ランス大聖堂で受洗
- 洗礼名「レオナール」(レオナルド・ダ・ヴィンチに由来)
- 以後「レオナール・フジタ」と署名
- 1965 年、ランス郊外に「平和の聖母礼拝堂」設計
- 礼拝堂内部のフレスコ画・ステンドグラスを自ら手がける
- 1968 年没、礼拝堂に埋葬される
- 晩年の宗教画は乳白色+墨線の様式を継承
戦争画と GHQ 接収
- 戦争記録画 153 点が GHQ により接収(藤田作品 14 点を含む)
- 1970 年、米国から「無期限貸与」として日本に返還
- 東京国立近代美術館が一括管理
- 長らく公開禁止、近年は学術展で部分公開
- 戦争画は美術と政治・倫理の交点として議論継続
主要所蔵館
- 東京国立近代美術館:「アッツ島玉砕」など戦争画
- ブリヂストン美術館(アーティゾン美術館):戦前作品
- ポンピドゥー・センター(パリ):パリ時代の代表作
- ランスのフジタ礼拝堂:晩年の宗教画
- 北海道立近代美術館:道立コレクション
- 秋田県立美術館:「秋田の行事」(1937、巨大壁画)
「秋田の行事」(1937)
- 秋田の素封家・平野政吉の依頼で制作した大壁画
- 幅 20.5m、高さ 3.65m の超大作
- 秋田の祭事・四季を描く
- 制作期間わずか 15 日
- 現・秋田県立美術館(安藤忠雄設計)の常設展示
- 日本国内における藤田の最高傑作の一つ
藤田の歴史的評価
- 戦前:パリで成功した最初の日本人画家として神話化
- 戦時下:戦争画の最高峰として国民的英雄
- 戦後:戦争責任問題の象徴として長く批判
- 1990 年代以降:戦争画を含めた総合再評価
- 2006 年「藤田嗣治展」(東京国立近代美術館)で復権
- 2018 年「没後 50 年 藤田嗣治展」(東京都美術館)大規模回顧
まとめ|藤田嗣治を読む視点
- 東京美術学校→パリ→エコール・ド・パリの国際派軌跡
- 「乳白色の肌」と細密な墨線で 1920 年代パリ画壇のスター
- 日本画の墨線・平塗り・装飾性を油彩に応用した革新
- 戦時下の戦争記録画と戦後の渡仏帰化、戦争責任の象徴
- 晩年カトリック改宗とフジタ礼拝堂で生涯を閉じる
あわせて 洋画 や 明治・大正美術の全体像 を読むと、藤田の特異な国際性と日本洋画の制度的中心との距離が立体的に見えてきます。
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