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ジャン=ミシェル・バスキアとは:路上から美術史を駆け抜けた天才

ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat、1960-1988)は、ニューヨーク生まれのアメリカ人画家。ハイチ系の父とプエルトリコ系の母を持ち、1970 年代末のロウアー・マンハッタンでグラフィティから出発、わずか 8 年の本格的な制作期間で、20 世紀後半美術における最重要作家の一人に駆け上がった。1988 年、27 歳でヘロインの過剰摂取により死去。死後の市場価値は上昇を続け、2017 年には《Untitled》(1982)が 1 億 1050 万ドルでサザビーズに落札され、アメリカ人作家として戦後最高額を記録した。

主要トピック:3 つの様式期

SAMO 期(1977-1980):グラフィティから出発

1977 年頃から、友人アル・ディアスとともに SAMO©︎(Same Old Shit)という署名で、ロウアー・マンハッタンの壁にエピグラム的な詩文をスプレーした。1980 年「Times Square Show」、1981 年「New York/New Wave」展で本格的なアート・ワールドに登場し、「SAMO IS DEAD」と路上に書いた直後にキャンバスへ移行する。

ニューヨーク絶頂期(1981-1985):ペインティングへの本格移行

キース・ハーリングと並ぶ「ニューヨーク・ストリート出身作家」として、ガレリスト アニーナ・ノセイの画廊からデビュー。続いてマリー・ブーン、ラリー・ガゴシアン、ブルーノ・ビショフベルガーらが扱い、急速に世界市場へ展開した。1982 年カッセル「ドクメンタ 7」最年少出品。テーマは黒人ヒーロー(チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、シュガー・レイ・ロビンソン)、解剖学、奴隷制、王冠、宗教図像、警察暴力など、自身のアイデンティティと社会批評が混じり合う。

ウォーホル協働期と晩年(1984-1988)

1984-1985 年、アンディ・ウォーホルと共同制作を行い、約 200 点の協働作品を生んだ。1985 年トニー・シャフラジ画廊での共同展は批評的に酷評され、関係に陰りが出る。1987 年ウォーホル死去後はバスキア自身も急速に体調を崩し、1988 年 8 月 12 日、ニューヨークの自宅で死去(27 歳)。

代表作

作品名制作年備考
無題(頭蓋骨)1981イーライ・ブロード美術館。電気ショック的な頭部像。
Dustheads19822013 年クリスティーズで 4880 万ドル落札(当時最高記録)
Untitled(青地に頭部)19822017 年サザビーズで 1 億 1050 万ドル。前澤友作氏が落札。
Charles the First1982チャーリー・パーカーへの讃。三連の組み合わせ作品。
Hollywood Africans1983ウィットニー美術館。アフリカ系俳優のステレオタイプ批判。
Riding with Death1988晩年作。死の予感を描いた作品。
Defacement (The Death of Michael Stewart)1983警察暴力で死亡したグラフィティ作家への追悼。
バスキア×ウォーホル協働作品群1984-1985200 点超。両者の図像と絵画的言語の混淆。

生涯年表

出来事
1960NY ブルックリン生まれ。父はハイチ系、母はプエルトリコ系。
1968交通事故で入院、母が解剖学書「Gray's Anatomy」を病床に持参。後の絵画の出発点。
1977友人アル・ディアスと SAMO 結成、グラフィティ詩文を始める。
1980「Times Square Show」参加。SAMO 解散。
1981「New York/New Wave」展(PS1)で広く認知。
1982カッセル「ドクメンタ 7」出品(最年少)。アニーナ・ノセイ画廊で初個展。
1983ホイットニー・ビエンナーレ出品、最年少。マドンナと交際。
1984-1985ウォーホルと共同制作。トニー・シャフラジ画廊で共同展(酷評)。
1987ウォーホル死去。バスキアの薬物依存が深刻化。
1988ヘロイン過剰摂取により NY の自宅で死去(27 歳)。
1992ホイットニー美術館で初の本格回顧展。
2017《Untitled》(1982)が 1 億 1050 万ドルで落札(前澤友作氏)。

技法・特徴

  • 言葉と絵画の同等性:絵の中に書き込まれる単語・引用・取り消し線が、視覚要素と等価に扱われる。「消すことで読ませる(cross-out)」手法は、注意を引きつける逆説として機能した。
  • 解剖学・記号図像:母から贈られた「Gray's Anatomy」と、ヘンリー・ドレイファス『Symbol Sourcebook』が生涯の参照源。骨格・内臓・矢印・冠・三角・コピーライト記号などが頻出する。
  • 黒人ヒーロー・カノン化:チャーリー・パーカー、ジャクソン、シュガー・レイ・ロビンソン、ジャズ・ボクシング・ヒップホップの偉人を画面に殿堂入りさせ、白人主体の美術史へ対抗するキャノンを築いた。
  • 素材の多様性:キャンバスだけでなく、ドア、冷蔵庫、フェンス、廃材、ノート、フリスビー、何にでも描いた。ストリート時代の感覚を画廊空間に持ち込んだ。
  • テキスト=絵画の境界:詩・タイポグラフィ・記号の集合として絵を構築し、グラフィティとファインアートの境界を消去した。

影響・後世

  • ニューヨーク・ストリート系作家:キース・ハーリング、後のバンクシー、KAWS、フューチュラまで、ストリートとファインアートを横断する系譜の出発点となった。
  • 音楽・ヒップホップ文化:JAY-Z「Picasso Baby」のリリック、カニエ・ウェスト、Wiz Khalifa らがバスキアを引用し、現代の黒人音楽カルチャーで「画家=アイコン」として継続的に参照される。
  • ファッション:ユニクロ UT・スプリームのコラボ、コム デ ギャルソン、グッチが繰り返しバスキアの図像を用い、若年層への認知が世界規模で広がった。
  • 映画:ジュリアン・シュナーベル監督「Basquiat」(1996)、タムラ・デイヴィス監督「Jean-Michel Basquiat: The Radiant Child」(2010)など、複数の伝記映画・ドキュメンタリーが制作されている。
  • 市場と再評価:1990 年代半ばまで「短命のスター」として一過性に扱われた時期もあったが、2000 年代以降は黒人美術史・ポストコロニアル研究と接続して再評価が進み、テート・モダン、フォンダシオン・ルイ・ヴィトン、森美術館などで大規模回顧展が続いている。

主題:黒人ヒーローの絵画的キャノン

バスキアは絵画の中に、黒人ジャズ・ミュージシャン、ボクサー、運動家、宗教指導者を繰り返し殿堂入りさせた。チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、ディジー・ガレスピー、ルイ・アームストロング、ジョー・ルイス、シュガー・レイ・ロビンソン、マルコム X——これらの名前は王冠・三冠・聖句・引用とともに画面に書き込まれる。ヨーロッパ伝統の歴史画が王侯貴族・聖人を描き続けたのに対し、バスキアは黒人の偉人を歴史画的スケールで描く新しいキャノンを実装した。20 世紀末以降、ケヒンデ・ワイリーがヨーロッパ古典絵画の構図に黒人の青年を入れ替える作品群を制作するが、これはバスキアの戦略の延長線上にある。

言語・文学的源泉

バスキアは絵画と並行して詩を書き続け、ノートには引用・覚書・落書きが膨大に蓄積された。参照源は、ジャズ・ヒップホップの歌詞、ハーレム・ルネサンスの詩人ラングストン・ヒューズ、ジェイムズ・ボールドウィンのエッセイ、解剖学書、聖書、ナポレオン戦争史、ハイチ独立革命史、奴隷貿易の年譜まで多岐にわたる。「取り消し線で消した語こそ、もっとも読まれる」という戦略は、文芸批評の脱構築(デリダ)と偶然のように響き合う。研究者の整理によれば、彼の絵画には引用された語彙が約 6,000 語を超えるとされる。

制作の現場と素材

素材用例意味
キャンバス標準的な大型作品市場で流通する正規の絵画
木材・ドア初期作品の多くストリート期の臨場感を保持
クレヨン・オイルスティック輪郭線・書き込み子どものドローイングに近い直接性
スプレー背景・即興部SAMO 期からの一貫した語彙
コピー紙のコラージュ後期作品マスメディア/引用の物質的痕跡
シルクスクリーン(ウォーホル協働)1984-85 共同作ポップアートの大量複製性を取り込む

ニューヨーク・グレートジョーンズ街 57 番地のスタジオは、ウォーホルが大家として貸していた建物で、現在も建物前に記念プレートが残る。彼が亡くなったのもこの建物の 2 階だった。スタジオの記録写真には、絵筆だけでなくレコードプレーヤー、テレビ、本、楽器が並び、絵画制作と音楽・言葉が分かちがたく一体だった現場が写っている。

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続けてバスキアの軌跡を読むと、グラフィティから世界最高額への 8 年間が、同時代のニューヨーク社会・人種・薬物の文脈と結びつけて立体的に理解できる。