杉本博司とは:時間と歴史を主題にする現代写真家の世界的巨匠
杉本博司(すぎもと ひろし、Hiroshi Sugimoto、1948-)は、東京・台東区出身、立教大学経済学部卒業後、1970 年にロサンゼルスのアート・センター・カレッジ・オブ・デザインで写真を学び、1974 年からニューヨークを拠点に活動する現代写真家・建築家・舞台演出家・古美術蒐集家・茶人である。
杉本の作家活動の中心は「時間」「記憶」「歴史」「文明」を主題とする写真連作で、「ジオラマ」(1976-)、「劇場」(1976-)、「海景(Seascapes)」(1980-)、「肖像」(1999-)、「建築」(1997-)、「数学的形態」(2004-)、「光のたっぷり」(2008-)など、数十年にわたる長期連作で構成される。これらは個別の写真集・展覧会というより、写真家の生涯をかけた哲学的探求として理解される必要がある。
主要トピック:代表的連作
「ジオラマ」(1976-)
アメリカ自然史博物館(NY)の動物ジオラマを撮影した連作。剥製と背景画で構成された作り物の自然を、正面から長時間露光で撮影することで、「写真は事実の記録ではなく、いかに虚構を真実らしく見せるか」というメディアの本質に迫った。マンモス、ホッキョクグマ、シマウマなど、博物館の標本展示が、撮影行為を経て不思議な「生きている」リアリティを獲得する。
「劇場」(1976-)
古い映画館・ドライブインシアターに通い、上映中の映画一本分の時間(約 90-120 分)を 1 コマで露光する手法で撮影。映画一本分の光量が積算された結果、スクリーンは真っ白に飛び、劇場内部の建築だけが浮かび上がる。映画というメディアを「時間を凍結する装置」として作品化する画期的な連作。
「海景(Seascapes)」(1980-)
世界各地の海と空を、海面と空が画面のちょうど中央で水平線によって二分される構図で、連作的に撮影。地中海・大西洋・太平洋・カリブ海・北海・日本海・カスピ海・タスマン海など、すべての海洋を画面に収めた。「太古の海と現代の海は同じか」という問いを根底に持つ、最も哲学的なシリーズ。
「ポートレート」「数学的形態」「建築」など
ポートレートは、ロンドンのマダム・タッソー蝋人形館の歴史的人物(ヘンリー 8 世、ナポレオン、エリザベス 1 世など)を撮影し、写真の発明前の人物の「不在の肖像」を写真として現前させた連作。「数学的形態」は石膏数式模型を撮影し、純粋数学の抽象を写真の物質性に変換する。「建築」連作はル・コルビュジエ、ミース、丹下健三、安藤忠雄ら 20 世紀建築の代表作を、ピンボケ寸前の柔らかな焦点で撮影し、建築の精神的本質を抽出する試み。
代表作・代表事例
| 連作名 | 始期 | 主要モチーフ |
|---|---|---|
| ジオラマ | 1976 | 自然史博物館の動物剥製・背景画 |
| 劇場 | 1976 | 映画館・ドライブインの長時間露光 |
| 海景(Seascapes) | 1980 | 世界各地の海面と空 |
| 建築 | 1997 | 20世紀近代建築の代表作 |
| ポートレート | 1999 | 蝋人形館の歴史的人物 |
| 数学的形態 | 2004 | 石膏の数式模型 |
| 光のたっぷり(Lightning Fields) | 2008 | 引き伸ばし機での放電パターン |
| 仏の海 | 1995 | 京都・三十三間堂の千一体千手観音像 |
| ヘンリー8世 | 1999 | マダム・タッソー蝋人形 |
技法・特徴
- 大判フィルムカメラ:ほぼすべての作品を 8×10 インチ(20×25 cm)の大判フィルムで撮影。デジタル時代に逆行するこの選択は、写真の物質性・光化学過程への忠誠でもある。
- 白黒(ジェラチンシルバープリント):杉本のメイン作品はほぼ全て白黒銀塩写真。これは色彩を排して時間と空間の構造に集中するための選択。
- 長時間露光:劇場連作では映画一本分(約 90-120 分)、海景では数秒〜数分、ジオラマでは数分。撮影は「瞬間」ではなく「時間の積算」を画面に固定する行為。
- ピンボケ/焦点ずらし:建築連作では、わざと焦点を被写体の手前に置き、対象を「見え方」のレベルで再構成する。これは写真術の「正しさ」への異議申立てでもある。
- 古美術蒐集と作品化:杉本は 30 年以上にわたって日本の古美術(縄文・弥生土器・室町水墨画・桃山陶磁器など)を集め続けており、これらは作品「江之浦測候所」「観海庵」(小田原)の構成要素となる。蒐集と制作が連続している点が、写真家の枠を超える独自性。
歴史的文脈:写真と現代美術の境界
杉本博司の独自性は、戦後日本の写真家としては稀な経路、つまり「写真家」と「現代美術家」の双方として国際的に認知された点にある。同時代の戦後日本写真には、土門拳・木村伊兵衛・中平卓馬・荒木経惟・森山大道といった強烈な系譜があるが、これらはおおむね「写真界」の中で評価されてきた。一方、杉本はニューヨークを拠点とし、メトロポリタン美術館・MoMA・ハーシュホーン美術館・グッゲンハイム美術館など現代美術の主流舞台に作品が並び、「写真でしかなしえない現代美術」として国際的地位を確立した。これは戦後日本の写真と現代美術の境界を実作で動かした、極めて重要な事例である。同時に、彼が古美術蒐集・建築・茶・能(演出)に手を広げた活動は、戦後日本の現代美術を「狭義の絵画・写真・彫刻」を超えた総合芸術として更新する試みでもある。
影響・後世
- 主要な国際賞・受章:1988 年ハッセルブラッド国際写真賞、2009 年高松宮殿下記念世界文化賞、2010 年文化功労者、2017 年文化勲章、2018 年フランス・レジオン・ドヌール勲章。
- 世界の主要美術館収蔵:MoMA、メトロポリタン美術館、テート・モダン、ポンピドゥー・センター、ハーシュホーン美術館など世界主要館にコレクションされている。
- 江之浦測候所(小田原、2017 開館):杉本が約 10 年をかけて構想・建築・運営する複合芸術施設で、相模湾を望む丘陵地に、能舞台・茶室・冬至光遥拝隧道・夏至光遥拝 100 メートルギャラリー・回廊・庭園・古美術と自身の写真の展示空間を組み合わせた、彼自身の総合芸術の集大成。事前予約制で年間限定数のみ来場可能、現代美術観光の聖地化している。
- 建築家としての活動:江之浦測候所の建築は榊田倫之との共同主催「新素材研究所」が手がけ、伝統的な石・木・土・和紙の素材を現代建築に取り入れる新しい方向を示した。
- 能・舞台演出:観世清和との共同で、能「井筒」「葵上」「藤戸」などの新演出版を国内外で上演。「光・空間・時間」という写真の主題を、舞台芸術に拡張する試みである。
「江之浦測候所」を訪ねる
神奈川県小田原市の海を望む段丘に位置する「小田原文化財団 江之浦測候所」(2017 開館)は、杉本博司が全構想・建築・運営を主導する、彼の総合芸術の集大成である。広さ約 1 万坪の敷地に、能舞台・茶室・冬至光遥拝隧道(冬至の日の出が建物軸を貫く設計)・夏至光遥拝 100 メートルギャラリー(夏至の日の出が一直線に通る回廊)・古美術回廊・写真展示室・庭園・歴史的石材コレクション(建築転用石、欄干、礎石)が配置されている。施設名「測候所」は、自然・天文・歴史を観測する場という意味で、杉本作品の主題そのものを建築化したもの。完全事前予約制(午前・午後の二部制)で、来場には数ヶ月先まで予約が埋まる。新東京国際空港から特急で 1 時間、東京から日帰り可能だが、近隣に宿泊して半日以上を過ごす来訪が推奨される。江之浦測候所は、写真家・現代美術家・建築家・古美術収集家・茶人・能演出家としての杉本博司の「総合芸術人」としてのあり方を、空間として体験できる世界唯一の場所である。
関連記事
続けてベネッセアートサイト直島を読むと、杉本作品が直島の家プロジェクト(護王神社)を含む現代日本のサイト・スペシフィック・アートの中でどう位置付けられるかが立体的に分かる。
