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フォーヴィスムとは:純色を解き放った 20 世紀最初の前衛

フォーヴィスム(Fauvisme、野獣派)は、1905 年のパリ・サロン・ドートンヌで批評家ルイ・ヴォークセルが「野獣たち(les fauves)の檻」と評した若い画家集団から生まれた美術運動である。中心はアンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンクら。鮮烈な原色を、対象の固有色や陰影に縛られず主観的な感情と画面の構築原理として直接置く姿勢が共通項であった。

運動としての持続は短く、1905〜1908 年のおよそ 3 年が活動のピーク。しかしそこで決定された「色は描写の手段ではなく表現そのものだ」という前提は、20 世紀絵画全体の出発点となった。

主要トピック:何がそれまでの絵画と違ったか

純色の解放

印象派・新印象派が外光のもとでの「見える色」を分析的に再構築したのに対し、フォーヴィスムは絵具をチューブから出した状態に近い非混合の純色を画面にぶつけた。空が緑、人の顔が赤、影が紫といった、現実から解離した色面が生まれる。

輪郭線と平面化

陰影によるモデリングを放棄し、太い輪郭で平面的な色面を区切る。この構造は、浮世絵とポール・ゴーガンのタヒチ絵画から学んだ造形語彙である。

感情としての色

同時代に活動したドイツ表現主義(表現主義入門)と並び、色を作家の内面表現として用いる近代絵画の二大潮流の一翼を担った。フォーヴィスムが「歓び・地中海的明るさ」に向かったのに対し、ドイツ表現主義は「不安・暗さ」に向かった点が対照的。

代表作・代表事例

作家代表作制作年所蔵
アンリ・マティス帽子の女1905サンフランシスコ近代美術館
アンリ・マティス緑のすじのあるマティス夫人の肖像1905コペンハーゲン国立美術館
アンリ・マティス生きる喜び1905-1906バーンズ財団
アンドレ・ドランコリウールの港1905個人蔵 ほか
アンドレ・ドランチャリング・クロス橋1906ナショナル・ギャラリー(ワシントン)
モーリス・ド・ヴラマンクシャトゥーのレストラン1905-1906個人蔵
ラウル・デュフィサント・アドレスの旗1906ポンピドゥー・センター
ジョルジュ・ブラックレスタックの風景1906ポンピドゥー・センター

技法・特徴

  • 絵具の直置き:パレット上で混色せず、純色をそのまま支持体に載せる。下地塗りを薄くし、画面全体の発色を最大化した。
  • 大胆な筆触:印象派的な分割タッチではなく、長くダイナミックなストロークで色面を構築する。
  • 輪郭による構造:色面が暴れすぎないよう、青や黒の輪郭線で形態を保持する画面が多い。
  • 地中海の光:マティスとドランが 1905 年夏に滞在したコリウール(南仏)が運動のメッカとなった。強い日射と海の光が、色彩解放の現場でもあった。
  • 後期印象派からの継承セザンヌの構成意識、ゴッホの感情的タッチ、ゴーガンの平面と装飾性が、いずれも前提として継承されている(後期印象派を参照)。

影響・後世

フォーヴィスムは短命だったが、その後の 20 世紀絵画への影響は計り知れない。

  • キュビスム:ブラックは 1907 年以降、ピカソとともにキュビスムを展開する。色彩解放の次の課題として「形態解放」へ向かったといえる。
  • ドイツ表現主義「橋」「青騎士」のメンバーがフォーヴィスムをパリで吸収し、ドイツ的な精神性と結びつけた。
  • マティス自身の展開:1908 年以降、マティスは「装飾」「平面」「アラベスク」を軸に独自の展開を続け、晩年の切り絵(パピエ・コレ)に至るまで、フォーヴィスム期に発見した色彩観を 50 年以上深化させた。
  • 戦後抽象:色面そのものが主役となるカラーフィールド(抽象表現主義)の地平にも、フォーヴィスム以降の「色は感情である」という前提が流れ込んでいる。

運動の終わりと「フォーヴ後」

1907 年のセザンヌ大回顧展が転機となる。多くの「野獣」が、自由な色彩から「形態の構築」へ関心を移し、ブラックはキュビスムへ、ドランはより古典的な明暗画へ、ヴラマンクは表現主義的な暗い風景画へと向かった。マティスだけが、色彩解放を出発点に独自の道を歩み続け、20 世紀後半まで影響力を保ち続けた。フォーヴィスムは「集団としての様式」というより、「20 世紀絵画が出発するための共通の通過儀礼」として歴史に位置づけられる。

1905 年サロン・ドートンヌの衝撃

1905 年 10 月、パリのグラン・パレで開催されたサロン・ドートンヌ第 7 室——通称「VII 室」——に、マティス、ドラン、ヴラマンク、マンギャン、カムワン、ヴァルタら約 9 人の作品が集中して展示された。中央には、ルネサンス的な様式で制作された彫刻家アルベール・マルケの裸婦のブロンズ像が偶然置かれていた。批評家ルイ・ヴォークセルは『ジル・ブラ』誌で「ドナテッロが野獣たち(fauves)の間にいる」と評した。これがフォーヴィスムの命名の瞬間であり、この一文が翌日のパリ画壇に拡散した。当時、買い手はほとんどつかなかったが、若い収集家ガートルード・スタイン、レオ・スタイン姉弟、セルゲイ・シチューキン(ロシアのモスクワ商人)らが早期に購入し、マティスを世界市場に押し上げた。

マティスの色彩理論と日本

マティスは色彩について「適切な分量の色を、適切な場所に置けば、その色は燃え上がる」と語り、面積比と隣接関係こそが色彩の効果を決定すると考えた。これは印象派的な「光学的混合」とは異質の、装飾的・デザイン的な色彩観であり、20 世紀デザインの基礎理論となる。日本の影響も大きく、北斎・広重の浮世絵を熱心に研究したほか、晩年(1947 年)の切り絵『ジャズ』は墨絵的な大胆な切り取りと色面構成を見せる。1952 年制作の『ヴァンスのロザリオ礼拝堂』は、絵画から建築・ステンドグラス・典礼具までを一人で総合した、フォーヴィスム以降のマティスの到達点である。

フォーヴィスムを構成した 9 人

作家生没運動内の役割
アンリ・マティス1869-1954運動の中心。色彩理論を生涯発展
アンドレ・ドラン1880-1954マティスとコリウールに滞在。後に古典回帰
モーリス・ド・ヴラマンク1876-1958暴力的な筆触。後に表現主義的暗色画へ
ジョルジュ・ブラック1882-19631907 年以降ピカソとキュビスムへ
ラウル・デュフィ1877-1953軽快な装飾性。テキスタイル・舞台美術へ
アルベール・マルケ1875-1947港湾風景の繊細な色彩
シャルル・カムワン1879-1965マティスの友人
キース・ファン・ドンゲン1877-1968オランダ出身。社交界の肖像画
オトン・フリエス1879-1949ル・アーヴル派

美術市場と評価史

当初は「悪ふざけ」として嘲笑されたフォーヴィスムは、1910 年代以降にロシアの収集家シチューキンとモロゾフ(モスクワ)が大量購入したことで、一気に世界的に評価が確立した。彼らの旧コレクションは現在エルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク)とプーシキン美術館(モスクワ)で公開され、世界最高水準のフォーヴィスム作品群を擁する。20 世紀後半以降は、ルイジアナ近代美術館(デンマーク)「Matisse」展(2004)、テート・モダン「Matisse: The Cut-Outs」(2014)など大規模回顧展が継続し、現代アートの根幹語彙としての位置を確立し続けている。

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続けてマティスの個別記事を読むと、フォーヴィスムが個人の制作の中でどう熟成され、装飾と切り絵へ展開していったかが追体験できる。