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バウハウスとは何か

バウハウス(Bauhaus)は、1919年にヴァイマル共和国で設立され1933年にナチスによって閉鎖されたドイツの造形学校です。建築家ヴァルター・グロピウスが「ドイツ工作連盟」と「美術アカデミー」の伝統を統合する形で設立し、わずか14年の活動でモダン・デザイン、グラフィック、建築、家具、教育、写真、舞台芸術の規範を一挙に作り上げました。

「芸術と技術の新しい統合」というスローガンの下、絵画・彫刻・建築・工芸の境界を解体し、機能と造形と社会を一体として考える教育を実践しました。本ページではバウハウスの三つの拠点、教育内容、主要人物、その後への影響を整理します。

バウハウスを理解する鍵は三つあります。第一に、バウハウスは単一の様式ではなく、ヴァイマル期(表現主義的)・デッサウ期(機能主義的)・ベルリン期(建築学校化)と内部で大きく方針を変えた動的な実験でした。第二に、それは芸術運動であると同時に教育機関であり、「予備課程(Vorkurs)」を中心とする独自の教育体系を持ちました。第三に、ナチスによる閉鎖で離散したスタッフが世界各地(アメリカ、イスラエル、日本)に散らばり、結果として20世紀の造形教育の世界的な伝播媒体となりました。

三つの時期

時期拠点校長方針
1919-1925ヴァイマルヴァルター・グロピウス表現主義的・手工芸的。ヨハネス・イッテンが予備課程を主導
1925-1932デッサウグロピウス→ハンネス・マイヤー→ミース・ファン・デル・ローエ機能主義・産業との連携。デッサウ校舎、マイスター住宅、家具・照明の量産化
1932-1933ベルリンミース・ファン・デル・ローエ建築学校として再出発するも、ナチスにより1933年7月閉鎖

教育の核心:予備課程

バウハウスの教育上の革新は、入学者全員が受ける半年間の「予備課程(Vorkurs)」にあります。専門に入る前に、素材・色・形・テクスチャの感覚を実験的に学び直す課程で、ヨハネス・イッテン、ラスロ・モホリ=ナギ、ヨーゼフ・アルバースが順次担当しました。

  • 素材実験— 紙・木・金属・ガラス・繊維を実際に切り、曲げ、貼り合わせる課題
  • 色彩理論— 補色対比、同時対比、寒暖対比などを系統的に学習。ヨハネス・イッテンの色相環は教材として残る
  • 形態の構文— 点・線・面・立体の関係を抽象的に把握する課題

この予備課程の発想は、後の世界中の美術・デザイン教育(ニュー・バウハウス、ブラックマウンテン・カレッジ、ウルム造形大学、戦後日本のデザイン教育)の祖型となりました。

主要なマイスター(教師陣)

分野マイスター主な活動
絵画・予備課程ヨハネス・イッテン初期の予備課程を確立。色彩理論
絵画・舞台オスカー・シュレンマー『三組のバレエ』(1922)。人体と幾何学の融合
絵画・色彩パウル・クレー色彩理論講義。約10年間在籍。詳細はクレーの色彩と象徴|バウハウスが生んだ詩的抽象画家
絵画・形態ヴァシリー・カンディンスキー『点と線から面へ』。作家全像を参照
金属・写真ラスロ・モホリ=ナギ予備課程・金属工房。写真とフォトグラム
家具マルセル・ブロイヤースチールパイプ椅子(ワシリーチェア、B32)
建築ヴァルター・グロピウス/ハンネス・マイヤー/ミースデッサウ校舎、マイスター住宅、ブルーノ集合住宅
織物グンタ・シュテルツル、アンニ・アルバース織物工房を主導。実用織物の量産化

代表的なプロダクトと建築

  • デッサウ校舎(1925-26、グロピウス)— ガラスのカーテンウォール、L字配置、機能ごとの棟分けという20世紀建築の基本ボキャブラリーを確立。世界遺産。
  • マイスター住宅(1925-26、グロピウス)— 教師たちのための住宅群。白い立方体の規範。
  • ワシリーチェア(B3)(1925、ブロイヤー)— 自転車のフレームに着想を得たスチールパイプ椅子。家具量産化の象徴。
  • WG24 テーブルランプ(1924、ヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルト)— ガラスと金属の最小要素で構成された機能美の原型。
  • バウハウス・タイポグラフィ— ヘルベルト・バイヤーの「universal」など、サンセリフ書体・小文字主義・グリッド・モンタージュ。
  • テキスタイル— アンニ・アルバースらの幾何学的織物。

バウハウスがデザインの世界規範を作るに至ったプロセスについてはバウハウスのデザイン革命|100年前にモダン・デザインを定義した学校で詳述しています。

影響と後世

離散後の伝播

1933年の閉鎖後、グロピウスとブロイヤーはハーバード大学、ミースはイリノイ工科大学、モホリ=ナギはシカゴで「ニュー・バウハウス」(後のIIT デザイン研究所)を設立、ヨーゼフ・アルバースはブラックマウンテン・カレッジ、後にイェール大学で教えました。バウハウスの教育思想は離散を経てアメリカ・パレスチナ(テルアビブの白い街)・日本(戦後のデザイン教育、桑沢デザイン研究所)に直接伝わりました。

ウルム造形大学への継承

1953年に西ドイツで設立されたウルム造形大学は「バウハウスの後継」を自認し、戦後のドイツ工業デザイン(ブラウン社のディーター・ラムス)の基盤を作りました。

現代への射程

  • ミニマリズムのデザイン哲学(アップル、無印良品)
  • サンセリフ書体・グリッドベースのレイアウト
  • 「フォーム・フォローズ・ファンクション」の規範
  • 家具・照明・キッチン用品の量産デザイン

研究上の論点

「バウハウス様式」という誤解

「バウハウス様式」と呼ばれる白い立方体・サンセリフ・スチールパイプの組み合わせは、実はデッサウ期のごく一部の表現でしかありません。ヴァイマル期は手工芸的・表現主義的、ベルリン期は建築学校化と、内部で大きく揺れていました。「バウハウス=モダニズムの完成形」というイメージは戦後アメリカの展示・出版(1938年MoMA「Bauhaus 1919-1928」展)が作り上げた像であり、近年の研究はこの単純化を解体する方向にあります。

ジェンダーの問題

バウハウスは創設時に「女性に開かれた」と宣言しましたが、実際には女性は織物工房に集中させられる傾向があり、建築・金属工房に進む女性は少数でした。グンタ・シュテルツル、アンニ・アルバース、マリアンネ・ブラント、ルシア・モホリらの仕事は近年の研究で大幅に再評価され、バウハウス史の書き換えが進んでいます。

ナチスとの関係

1933年の閉鎖はナチスによる強制でしたが、バウハウス内部にも保守派とナチス支持者は存在しました。校長ハンネス・マイヤーが共産主義者として攻撃された経緯、ミース・ファン・デル・ローエが閉鎖を回避しようとした政治的妥協、教師たちの亡命先での「バウハウスの脱政治化」は、戦後の冷戦下で複雑な歴史的論点となっています。

関連項目

続けて読むなら

バウハウスのデザイン哲学が具体的なプロダクトと建築でどう実装されたかをもっと知るには、続けてバウハウスのデザイン革命|100年前にモダン・デザインを定義した学校を読むと、本ページで概観した教育思想が具体物にどう翻訳されたかが見えます。バウハウスを動かした二人の主要人物についてはカンディンスキーと抽象絵画の起源|色と音楽が出会う場所クレーの色彩と象徴|バウハウスが生んだ詩的抽象画家もあわせてどうぞ。